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松江地方裁判所 昭和52年(ワ)63号 判決 1980年7月16日

原告

小笠原純則

右訴訟代理人

高野孝治

松原三朗

被告

應儀兼武

被告

應儀イツ子

右両名訴訟代理人

森脇孝

主文

一  被告應儀兼武は、原告に対し、一一三五万三五九一円及びこれに対する昭和五二年五月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の被告應儀兼武に対するその余の請求及び被告應儀イツ子に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用の二分の一と被告應儀兼武に生じた費用を被告應儀兼武の負担とし、原告に生じたその余の費用と被告應儀イツ子に生じた費用を原告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、原告が二〇〇万円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一被告兼武の債務不履行責任

1  診療契約の締結

被告兼武は、島根県邑智郡桜江町において應儀医院を開業し、医療に従事する医師であり、被告イツ子はその妻であつて、被告兼武の医療行為の補助を担当しているものである。

原告は、昭和四九年三月一四日午後五時頃、被告兼武との間において、左眼の疾病の原因を解明し、適切な治療行為を求める旨の診療契約を結んだ。

以上の事実は、当事者間に争いがない。

2  被告らによる診療経過

<証拠>を総合すると、以下の事実が認められ、以下の認定に反する証拠はない。

(一)  原告は、昭和四九年三月当時大場建材の運転手として勤務していたものであるが、同月一四日午後二時過ぎ頃トラックの荷台の上に積み込まれているセメント製U字管を覆しながら荷台の端まで転がして行き、トラックの荷台の側板をおろし、荷台から地面へ棒を二本かけ、その上をロープをかけたU字管を下ろす作業に従事していたところ、U字管がこの棒の上を転がる際に異物が風に吹かれて原告の左眼に入つた。(左眼に異物の入つた経緯については当事者間に争いがない。)そのため、原告は、左眼がころころする異物感をもつたが、激痛を覚える程でもなかつたのでそのまま引き続き作業を続け、トラックを運転して五時頃前記大場建材に帰社した。

(二)  原告は、同日午後五時過ぎ頃、應儀医院を訪れ、「U字管を運搬中、午後二時過ぎ頃目にごみが入つた。セメントかも知れない。眼が痛い。ころころする。」という趣旨を訴え、診療を求めた。

原告が来院した当時、被告兼武は、往診中のため不在であり、同医院には医務婦である被告イツ子と見習看護婦である井上松美の二人がいた。

被告イツ子は、直ちに、往診先の被告兼武に電話で指示を求めた後、診察室で、応急措置として、赤くなつていた原告の左眼を食塩水で二回ほど洗眼したところ、原告は「楽になつた。」といつた。次いで、原告は、同原告から左眼に液を一、二滴点眼を受けたところ、その瞬間、左眼に激痛を覚え、思わず「薬が違いやせんか。」と叫んだため、同被告が重ねて洗眼を試みたが、激痛はおさまらなかつた。被告イツ子と井上は、原告が液の薬剤を疑うような口振りを示したことから、液がしみたにすぎない旨を説明するとともに、井上がその場で点眼液を自分の眼に点眼してみせた。

(三)  往診先から帰院した被告兼武は、同日午後五時三〇分過ぎ頃、被告イツ子から治療経過を聞いた後、直ちに原告を診察したが、その際、原告から「午後二時三〇分頃セメントらしいものが眼に入つた。」との説明を受けた。被告兼武は、触診として原告の左眼を開けて観察したところ、異物は認められなかつたが、結膜が全般的に充血しており、原告から眼痛、頭痛の訴えもあつたので、食塩水で原告の左眼を洗眼し、次いで炎症防止のためサイアジン点眼液(スルフインキサゾール)を一、二滴点眼したあと、ザルソグレラン注射液(鎮静剤)を静脈に注射した。一五分位経過して、原告は、「楽になつた。ゴミかもしれない。」と言つて帰つた。そのため、被告兼武としては、原告の左眼障害の原因がセメントの粉末によるものかどうかの結論をだしかねる状態にあつた。

(四)  原告は、帰宅後、眼痛、頭痛が増し、左眼の腫れもひどくなつたため、同月午後一一時頃被告兼武の往診を求めたが、その時点では、原告の左眼の症状は、全般にわたつて充血し、上眼瞼が腫れ、角膜がやや不透明の状態となり、激しい眼痛、頭痛に嘔吐を伴い、当初診察した時点よりも明らかに重篤な症状を呈していた。被告兼武は、この時点で原告の左眼障害の原因はセメント粉末によるものとの疑いを強く抱くに至り、とりあえず、左眼の充血をとり、神経系を楽にするためプロカイン液(局所麻酔薬)を点眼し、疼痛緩和のためザルソグレラン注射液を静脈に注射し、コントロール(睡眠剤)二錠を投与した。そして、被告兼武は、原告とその家族に対し「魚でもセメントの微量によつて死にます。だから目が失明するかもしれない。私ではこれ以上の事は出来ない。明日の様子を知らせて下さい。その結果松村さん等へ転医させます。」と言い、セメントによる眼障害の危険性を説明し、翌日の再来院を勧め、その時点で原告の左眼の症状の経過をみきわめた上で眼科専門医への転医措置の必要がある旨を述べた。

(五)  原告は、翌日、被告兼武の再治療を求めることをしないで、自らの判断で島根県済生会江津病院の治療を受けた。

3  原告の左眼障害の原因

(一)  作業中、原告の左眼に入つた異物

(1) 原告の左眼に異物が入つた経緯は前記認定のとおりである。

<証拠>によれば、原告が積みおろし作業をしていたセメント製U字管は、巾約三〇センチメートル、長さ約二ないし四メートルで型状はU字形で中空になつているものであつて、一年前に製造され、屋外に大人の背丈位の高さに積み上げられていたものであること、積みおろし作業は、右のように積み上げられていたU字管を上の方からリフトでトラックの荷台に積載し、作業現場まで運搬した後に引き続き行われたものであること、当該トラックで未反応のセメント粉末の袋を運搬することもあつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

右事実によれば、セメント製U字管の積込み、運搬、積みおろしの過程において、U字管やトラックの荷台の上には、土、砂のほかセメントの小破片や風化しきれないセメント粉末が生じ或いは残存していた可能性があつたものということができる。

(2) 次に、<証拠>並びに鑑定人藤永豊の鑑定の結果を総合すると、原告の左眼障害の内容は、角膜白斑と続発性緑内障による視力障害であつて、その原因はアルカリ性物質に起因したアルカリ性眼障害に続発した緑内障によるものであること、セメントはアルカリ毒であるが、セメントの小破片が眼に入つた場合には右のような障害は生じないのであつて、粉末が入つたような場合に限つて右のような障害が起こり得るものであること、原告の左眼診療の過程において、瞼、球結膜、角膜、強膜、眼球内のいずれの個所からも異物が摘出されなかつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(3)  以上認定した事実によれば、原告の左眼に入つた異物は少量で低濃度のセメント粉末であつたと推認するのが合理的である。

(二)  被告イツ子が原告の左眼に投与した液

原告は、被告イツ子が原告の左眼に角膜毒(アルカリ物質)を投与したものであつて、これにより左眼角膜が腐触され失明するに至つた旨の主張をする。

被告イツ子が原告の左眼に液を点眼した経緯、その後の左眼の症状は先に認定したとおりであるが、右事実から被告イツ子の投与した液が角膜毒(アルカリ物質)であつたことを推認することは困難であり、その他、原告主張の右事実を認めるに足りる証拠はない。

(三) 以上認定した事実によれば、原告の左眼障害の原因は、昭和四九年二月一四日午後二時過ぎ頃に原告の左眼に入つたセメント粉末によるアルカリ性物質に起因したアルカリ性眼障害に続発した緑内障によるものであるというべきである。

4 被告兼武の債務不履行、帰責事由及び原告の左眼障害との間の相当因果関係の有無

(一)  被告イツ子による誤つた点眼措置の有無

原告は、被告イツ子が被告兼武の履行補助者として、原告の左眼に点眼液を間違えて角膜毒(アルカリ物質)を点眼した旨の主張をするが、角膜毒を点眼した事実そのものが認め難いことは先に認定したとおりであるから、これを理由に被告兼武に債務不履行がある旨の原告の主張は理由がない。

(二)  被告兼武の転医措置懈怠の有無

(1) アルカリ性角膜毒物質の眼組織への浸透性とその治療措置方法

<証拠>並びに鑑定人藤永豊の鑑定結果によれば、以下の事実が認められる。

(イ) アルカリ性角膜毒物質が高濃度の場合には、角膜上皮は直ちに障害を起こし、潰瘍を形成し、混濁を生じる。時間の経過とともに、角膜毒物質は角膜深層に達し、角膜は混濁を増し、白濁し、さらに浸透して前房内に入り、前房水が混濁し、角膜浮腫、虹彩毛様体炎を併発する。この状態になると、角膜潰瘍、角膜混濁、角膜浮腫は一層著明となり、眼圧が上昇し、緑内障を急に併発する。緑内障になると角膜浮腫、混濁はさらに増強する。

少量の角膜毒物質の場合には、直後においては角膜障害は軽度である。

角膜毒物質が粉末である場合には、涙液により漸次溶解され、濃度が増加し、五ないし七時間の経過で角膜に障害を及ぼし、一〇ないし二四時間の後に前房内に浸透し、角膜上皮が損傷され、角膜浮腫、角膜のうすい混濁が発生し緑内障を併発するに至る。

眼痛は強度であつて、高濃度の場合には直後から眼痛を感じる。極めて濃度が低いか、高濃度でも極めて少量の場合とか粉状の場合には眼痛、異物感は軽度であつて、その発現も遅延する。

(ロ) 洗眼液(生理的食塩水、硼酸水、滅菌蒸留水)による十分な洗眼をすることは角膜毒、異物の排除に効があり、眼内への浸透を防ぐ効果がある。

サルファ剤、抗生物質、ビタミンB2剤の点眼液、眼軟膏の点眼、点入を行なうことは、感染症、炎症防止・治療、角膜損傷の治療に有効であり、眼圧上昇防止方法の一つともなる。

ステロイド剤の点眼は、前房蓄膿、虹彩毛様体炎の発生に際しては初期より用いられるが、これは炎症、組織の増殖・癒着を防止する効果があり、眼圧上昇の予防の一つともなる。

前房穿刺術は、角膜毒物質が眼内に浸透し前房水の混濁が認められる場合に行われるが、根本的治療効果はない。緑内障を発生した場合には緑内障手術が行われるが、治癒は困難である。

(2) 被告兼武の眼治療に関する経験、設備

<証拠>によれば、以下の事実が認められ<る>。

被告兼武は、昭和二二年一〇月から島根県邑智郡桜江町において應儀医院を開業しているが、同地域はいわゆる僻地地域で医師は同被告のほか、小児科医の二人のみであるため、専門の脳外科、神経科のみならず、内科、産婦人科、眼科の分野でも診療にあたり眼疾患についてもある程度の経験を積んでいる医師である。

しかし、被告兼武は、眼科専門でなく、原告の左眼にセメント粉末が混入しているかどうか、どの個所にどのような状態で付着しているかどうかを診断するに必要な顕微鏡、眼圧を測定してアルカリ傷害がどの程度進行しているか、前房内にまで浸透しているかどうか、緑内障を併発したかどうかを診断する諸設備を備えていなかつたし、眼の中に混入したセメント粉末を除去し、中和する処置、浸透を防ぐための措置も行うことはできなかつた。現に、被告兼武は、従前から、セメントが眼に入つた患者については専門の眼科医に転医させる措置をとつていたのである。

(3) 被告兼武のとつた診療措置

被告兼武が同日午後五時三〇分過ぎ頃、原告を診察した時点において、同被告は原告から左眼にセメントらしいものが入つたという説明を受けていること、その症状は左眼結膜が全般的に充血し、鎮痛剤の注射を必要とするほどの激しい眼痛を訴えていたこと、被告兼武のとつた措置は食塩水による洗眼、サイアジン点眼液の点眼、ザルソグレラン注射液の静脈注射にとどまつたこと、被告兼武としては原告の左眼障害の原因がセメント粉末によるアルカリ毒に起因するものかどうか、いずれとも結論を出し得ない状態にあつたことは、先に認定したとおりである。

(4)  以上認定した事実によれば、アルカリ性眼障害が重篤な結果をもたらし、早期に適切な治療を施す必要のあることは明らかな事実である。被告兼武が同日午後五時三〇分過ぎ頃、原告の左眼を診察した時点において、原告からセメントらしいものが三時間ほど前に左眼に入つた旨の説明を受けていたものであつて前記左眼症状の外見的所見及び原告の眼痛の訴えとあいまつて、セメント粉末によるアルカリ性眼障害を疑わせる余地もないとはいえなかつたものであるから、被告兼武としては、アルカリ性角膜毒物質の眼組織への浸透の有無程度を解明するための措置をとるべきであり、その結果によつて直ちに適切な治療処置が考慮されて然るべきであつたと解される。

そして、右時点におけるアルカリ性角膜毒物質の眼組織への浸透状態は、少量で低濃度のセメント粉末が角膜や結膜の部分に付着、滞留し、涙液によつて漸次溶解され、アルカリ濃度が増し、角膜に障害を及ぼす前駆期症状を呈していたものとうかがわれる。しかしながら、應儀医院では右症状自体から原告の左眼障害がアルカリ性眼障害に起因するものかどうか解明しうるだけの設備も技術も備えていなかつたが、だからといつて、右の措置をとらなかつたことを正当化しうるものではなく、他に十分な措置をとりうる病院があればそこに転院させる等の措置をとるべきであつて、現に應儀医院では従前から、セメントによる眼障害の患者についてはこれらの設備を備えた専門の眼科医への転医措置を講じていたものであるから、原告についても当然この措置を講ずることを考慮すべきである。

しかるに、被告兼武は、アルカリ性眼障害の危険はないものと即断して転医措置もその旨の勧告もしないまま、前記のような治療措置を講ずるに止まつたのであるから、原告の診療につき医師として十分な診療を尽さなかつたものと認めざるを得ない。したがつて、被告兼武には前記診療契約上の債務について債務の本旨に従わない不完全な履行をしたものというべきである。

(三) 被告兼武の帰責事由の有無

先に認定した事実によれば、被告兼武は原告を午後五時三〇分過ぎ頃診療した時点において、左眼障害がセメント粉末によるアルカリ性物質に起因する可能性を疑つてみるべき事情があつたものと認められるから、直ちに転医措置ないしその旨の勧告をすることによつてアルカリ性眼障害を未然に防止すべき注意義務があつたにかかわらずこれらの措置を怠つた過失があるといわざるを得ない。

(四) 原告の左眼障害と被告兼武の転医措置懈怠との相当因果関係の有無

セメント粉末が眼に入つた場合、涙液によつて漸次溶解されアルカリ濃度が増し角膜に障害を及ぼすことになるが、時間的には、五ないし七時間で角膜に障害を及ぼし、一〇ないし二四時間を経過すると前房内に浸透し、角膜上皮が損傷され、角膜浮腫、角膜混濁を生じ緑内障を併発するに至るが、緑内障を併発すると治癒が困難となること、しかし、原告が被告兼武から診療を受けたのはセメント粉末が左眼に入つてから三時間余りしか経過しておらず、角膜に障害を及ぼす前駆期症状にあつたことは、先に認定したとおりである。

右事実によれば、この段階で、原告の左眼に対し専門医による適切な治療が施されていれば治癒する可能性があつたものと認められるから、被告兼武の転医措置懈怠と原告の左眼障害との間には相当因果関係があると認めるのが相当である。

5  以上により、その余の点について判断するまでもなく、被告兼武は、医療契約上の債務不履行により原告のこうむつた損害を賠償する責任がある。

二被告イツ子の不法行為責任

被告イツ子が点眼液を間違えて原告の左眼に角膜毒(アルカリ物質)を点眼した事実が認められないことは先に認定したとおりであるから、これを理由に、被告イツ子に不法行為がある旨の原告の主張は理由がない。

したがつて、被告イツ子は、原告の左眼障害に起因する損害を賠償する責任があるものとはいえない。

三過失相殺

1  被告兼武は、原告が早期に専門の眼科医の診療を受けなかつた点に過失があると主張する。

前記認定の事実によれば、原告は左眼にセメント粉末が入つてから三時間以上経過した後に、眼科専門医でない應儀医院を訪れていることが認められるが、その時点で被告兼武によつてこれに対する眼科専門医への転院措置が講じられていれば、原告の左眼障害を回避することが可能であつたものであるから、これをもつて原告に過失があるものとは認められない。

2  被告兼武は、原告が自ら眼科専門医に転医しなかつた点に過失があると主張する。

前記認定のとおり、午後五時三〇分過ぎ頃の時点で被告兼武が転医措置を尽くさなかつた結果原告の左眼障害に対する適切な早期治療の機会を失したのであり、午後一一時頃までに眼科専門医に自ら転医しなかつたからといつてその点に原告の過失があるとは認められない。<以下、省略>

(福永政彦 鳥越健治 片岡勝行)

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